車か歩きか。

長崎新聞のコラム「うず潮」2000.9.(第4回)


貴重品だったはずの「紙」は大変安価に手に入るようになった。

これは単に技術文明によって製造が低コストに抑えられているからではない。
目先の利益追求しか考えない大国や企業が、発展途上国の経済の弱みにつけ込んで、
低賃金でその国の森林を伐採させ破壊し尽くして原料コストを抑えた結果である。

木々を植え森林を育て地球を緑のままに保ちながら紙を作るなら、もっと高価なはずである。
毎朝届く分厚い新聞や折り込みチラシを手にしながら、
「これでいいのだろうか」と考え込んでしまう。

雨の日の朝、小学校の周りは子どもを送る自動車があふれる。
私は、雨の中を苦労して登校することが子どもにとって貴重な経験になり教育的にも大切だと考えるが、
「服が濡れて風邪を引いたらどうする、濡れたままじゃ授業に集中できないだろう、
 第一雨の日は車が多くて交通事故が心配だ。」という親たちを説得出来る自信はない。

私たちが子どもの頃は、親の教育的な信念の有無、子どもの心身を心配する親心に関係なく、
ほとんどの家庭に車は無く、有っても子どもを送り迎えする道具ではなかった。

否が応でも子どもたちは、風の中での傘の持ち方を工夫し学習した。

生活必需品として普及してしまった自動車の価格もさることながら、
「ガソリン」もあるべき価格をはるかに下回っている。

植物を地中深く何万年も寝かせて「石油」を造るとしたら、
地球環境を守る経費をその価格に含ませるなら、冒頭に述べた「紙」以上に高価なはずである。

「安い」から車の方がましだと言って、みんな歩かなくなったのじゃないかと思う。 

娘が運動会の案内状を持って来た。細かく駐車場のことが記されている。
そういえばPTAの案内でもそうだった。
娘の小学校は街なかにあって、子どもたちは全員徒歩で登校しているのに、
なぜ「車は乗り入れ禁止」と書けないのか。

子どもたちの通学路を歩いてみることが、子どもを理解する第一歩になると思うのだが。 


         松坂昌應(まつさかまさおう) 島原/森岳商店街事務局



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