島原商工会議所青年部第15代会長
しまばら不知火連連長
廣 瀬   朗


「それは雲仙普賢岳噴火災害がキッカケでした」

 平成4年、元島原市長‘鐘ヶ江管一’氏の紙面での話を読んで、島原に対し何か支援できないかと決意した
阿南YEG当時の会長‘西野賢太郎’氏は、
島原YEGと連絡を取り合ううちに、降灰がひどくて外で全く遊べず、
ストレスが溜まっている島原の子供達が沢山いることを知りました。

 そこで両青年部で企画されたのが「阿南・島原げんき塾」。
島原の子供達を阿南に招待し、一時の間だけでも降灰から逃れさせ、
又、両地域の子供達が交流し、お互いの地域の特質や文化を知ることで、
次代を担う子供達の成長の一助になれば、
というのが開塾の大きな目的です。

これが阿波踊りに出会うキッカケとなりました。

 そのげんき塾初日の8月14日、阿南市役所「ささゆり連」の踊る阿波踊りに初めて出会い、
島原から訪問した65名は、あの激しいリズムに合わせて踊る
‘男踊りの勇壮さ’‘女踊りのしなやかさ’に圧倒され、声も出ない状態になってしまいました。

 そして、その感動をもっと沢山の島原の皆さんに知ってもらいたい、
このリズムで気持ちの落ち込んでしまっている島原の人たちを元気づけたい、
と思った我々スタッフは、
ささゆり連の皆さんに無理矢理お願いして、
その年の10月に開催される「しまばら温泉不知火まつり」で阿波踊りを披露してもらうことになりました。

 “島原での阿波踊りの人気の、もの凄いこと”
予想はしていたものの、踊っているささゆり連の皆さんも、
お世話をしていた我々も、正直ビックリしました。

行く先々でできる沢山の人だかり、大きな声援、
今度はあそこで踊るらしい…とデマまで飛ぶ始末。
ささゆり連の皆さんは2日間、
島原・深江の十数カ所で精一杯の踊りを力一杯披露しくれました。

 そして締めくくりで踊った最後の湊商店街、
1時間以上も待たせたお客様に充分満足してもらい、
踊り終わって疲れ切り“ホッ”として休んでいるささゆり連女踊りの彼女たちに、
そっと近づく80才くらいの島原のおばあちゃん。

「ありがとうね!わたしゃ1回でんよかけん、本物の阿波踊りば見たかと思ちょった。
ばってん、この年やけんあきらめちょりました。
そん変わし普賢さんの噴火さしたお陰で、
あーた達の来てくれらして、ほんとん阿波踊りば見せちくれらした、
ほんて嬉しか。よか冥土のみやげのできました」
と言いながら、女踊りの彼女たちの手を取り、ボロボロ涙を流します。

それにもらい泣きしたささゆり連の皆さん、
感動で涙が止まりません…。
そして我々スタッフみんなの目にも涙が一杯。

 この素晴らしい光景を目の当たりにして、
“見る阿呆も踊る阿呆もこんなに感動できる阿波踊り、
もっと沢山の人にこの感動を知ってもらいたい!”と私達はこの時に強く思いました。
このことが島原阿波踊り誕生のキッカケになりました

〜続き〜