読売新聞

2001年8月21日(火)


  三日連載  8/19(日) 8/20(月) 8/21(火) 


おじゃまします〜島原市万町商店街〜


「街再生」の思い 世代超え

個性ば出そうぜ!!

若者集い路上ライブ

「森本園芸」緑のステージ

日が沈んだころ、万町商店街を訪れると、小さな緑に囲まれたステージがあった。

造園業「森本園芸ガーデンパーティー」の後継ぎで
ステージをつくった森本博さん(38)が説明してくれた。

夏場の土曜夜市では、音楽好きの若者たちが気ままに路上ライブを行い、
演奏や歌を楽しむ一角だ。

その森本さんの母の京子さん(63)が、商店街で花屋を開業したのは1970年のこと。
洋ランやシクラメンなどの鉢物人気で、一時は繁盛したが、
他の店と同じく噴火災害で大打撃を受けた。

京子さんは、経営者が高齢化し、利益がなかなか上がらなくて、
遅い時間帯まで従業員を置けない商店街の疲弊を身近に見てきた。

「長く栄えた商店街だけに、息子や娘を進学させようとする。
 そのうち後継ぎが地元に残らないようになった。」と思い、
商店街全体が手をとりあっての再生を願っている。

しかし、博さんは、
個々の商店が個性を出すことこそが、商店街の浮揚には大切だと考えている。
商店街が取り組む活性化の動きに対しても
「みんな一緒に浮き上がろうというのは幻想」と言い切る。

「自らの能力やネットワークで島原の情報を発信していかないと、
 商店街の力として身につかない」。
そんな思いが、ステージ設置につながった。

一時は「うるさい」「路上ライブに集まる若者はうさんくさい」などの批判もあったが、
インターネットを通じて、このステージは次第に知られる存在になってきた。

「こんな意見は、商店街では嫌われているかも知れませんが
 この町で生き延びていけるかどうか真剣なんですよ」。

若い経営者たちは、博さんの意見に耳を傾ける。
再生を期す市内一番の商店街は、世代を巻き込んで議論が続いている。



辛苦乗り越えた甘い味

「松屋菓子舗」第11代主人松田スミエさん

通りにも大手川にも面した古い菓子店がある。
「松屋菓子舗」。
看板には「創業元禄元年 島原藩御用菓子司」とあり、
江戸時代から300年続くしにせだという。
3年前に改装して、古さと新しさが同居する店構えだ。

11代目の主人は松田スミエさん(80)。
商店街の現役の経営者では話を聞き、
スミエさんほど苦難の人生を歩んだ人もほかにいないと感じずにはいられなかった。

戦前までは和菓子の店だったが、
1955年ごろに洋菓子の製造も始めた夫の富夫さんは、46歳の若さで他界した。

長男の正孝さんが10代目として店を継ぎ、
1968年には完全な洋菓子専門店に移行した。
店舗も洋風に改装し、喫茶店も併設したが、
1982年、37歳の若さで軽飛行機で事故死した。

その後店を継いだ三女純子さんも一昨年、
店舗をリニューアルオープンした直後、49歳で病死する不幸に見舞われた。

この苦境を、この店に40年間勤務している高木美南子さん(59)らが
一丸となって支えた。

今は孫の俊司さん(32)が、13代目の後継ぎとして菓子づくりに励んでいる。

商品もスミエさんの提案で
くずまんじゅう「湧水のしずく」、焼菓子「島原小町」など和菓子を再度組み入れ、
和洋両方の販売戦略を採っている。

しにせを続けるコツは
「品質の維持ですね。それがお客さんとの信頼につながる」と語る。
噴火災害時に落ち込んだ売れ行きも次第に回復してきた。
「商品開発とともに人を引きつける魅力ある商店街づくりも考えねばならない」とも。

屋号は、松平家から「松」の字を許されて誕生したという。

「跡継ぎができれば私も引退ですよ」との思いも胸にはあるが
「創業当時の菓子の再現もしたい」と、まだまだやる気は衰えていない。



取材を終えて

勝負挑む姿伝えられれば

雲仙・普賢岳噴火災害で大きな打撃を受けた島原市一の商店街。
この災害のほかにも郊外型大型店舗の進出や
既存の専門店街商法の見直しも迫られていた。

そんな中でオープンスペースを自前で運営したり、
懸案としている駐車場を持つなど、
商店街としての生き残りをかけて「勝負」を挑んでいる。

商店街のみなさんに最も聞きにくい質問を浴びせた。
「嫌味な新聞記者が来た」と思われただろうが、
快くか、嫌々ながらかかは別にして、取材に応じて頂いたみなさんに感謝したい。

みなさんの思いをすべて伝えきったとは思っていないが
60点の及第点をつけていただければ幸いです。

(光沢康基)