島原新聞

市町村合併で提言

2002.8.8.〜8.10.

目先の利害で進路を誤るな

〜なぜ出来ないのか!?半島の一本化〜

前島原商工会議所会頭 森本元成 氏

8/8(一) 8/9(二) 8/10(三)
(二)

なぜ半島一本化ができないのか

たくさんの人から、よく質問を受ける課題である。
理由がいろいろあるだろうが、私なりに考察してみた。

住民や首長同志の
好き嫌いとか、職員の保身、等々があるとは思わないが、
この次元の論理は、すでに超えたところにある。

そうはいっても、首長や議員にとっては、
自分の首に関係することだから反対する気持ちはわかる。
だれだって
自分の身は可愛いのだ。

しかし首長や議員は、住民が選ぶわけだし、
その
住民が真に合併を願うのであれば、
謙虚に住民の声に、耳を傾けなければならない。

まずは、
良識ある住民の判断が望まれる。

反対の理由として、
人口やインフラ(経済活動の基盤をなす社会資本)が、一部の地域に集中して、
周辺部との振興格差が生じるのではないか?という不安
が、
周辺部町にあるからと思う。

この点、為政者が十分に配慮する必要がある。

逆に、人口が増えることによって、財政規模は拡大するわけだから、
重点配慮すれば、周辺部もかなりのことができるのではないか。

人口が増えることは大きなパワーなのだ!

例えば、万里の長城を見よ。
山海関から延々6千キロメートルに及ぶあの長城だって、
中国13億の人口で割れば、
なんと一人当たり5ミリメートル弱にしかならない。

まさに
数は力なり!なのだ。


島原半島は一つという論理

南高来郡の
高来なる地名は、神代の昔から存在していた。
我等の郷土島原半島は、まことに悠遠な由来を有するものというべきである。
「島原半島史・上巻」では、島原半島の地学的説明もなされているが、
半島の生成過程からみて、もともと一つであった。

近代では、明治2年、島原藩忠和藩主は、藩籍を奉還、
有馬晴信から2世紀半余り続いた藩政は終わりを告げる。

このとき領民12万8千余名、
これに神代鍋島領民4千5百余名が加わり、島原県となり、
明治11年に、島原半島は、南高来郡にまとめられ郡役所が置かれた。
(この間の歴史的変遷は「目で見る島原・南高の歴史」松尾卓次氏の解説に詳しい)

つまり近代に入ってからも
半島の一体化はごく自然に進んでいたのである。

ここらあたりが、他の郡と基本的に違う点であり、
半島が一つになることは、原点に戻ることであり、
決して不自然なことではない。

このような歴史的事実、文化や経済面においても、
半島民が等しく共有していたことは、あまねく皆さんご存知の通りである。

さきの田代弁護士の言にもあったように、
普賢岳噴火によって
島原半島のブランド価値は高まった。
この貴重なブランドを活かさないという手はないであろう
島原半島は今でも全国版なのだ。

がまだす計画は、もともと半島は一つ!という視点に立って計画を推進してきた。
観光面でいえば、半島を鳥瞰的に見て、5つのゾーンにわけて機能分担を提言している。

即ち、
半島北部を、家族で自然とたわむれる里
西部は、海に遊び夕日を楽しむ海岸線
南部は、ルイス・フロイスの道、歴史と史跡探訪ゾーンと位置づける。
雲仙地区は、自然とやすらぐハイカラな街、国際自然保養地帯
島原地区は、火山を学び、触れるフィールド、国際火山公園地帯と位置づけた。

それぞれの
地域の個性を活かしながら、半島の均衡ある発展をめざしたのである。

この広域的な発想が、観光客の連泊や長期滞在客を呼び、
賑わいを取り戻せるのではないかと考えた。

分割論が、かまびすしい中、あえて大胆な発言を許してもらえば、
半島を横断して、小浜町と島原市が、先ず合併すれば大勢は決まるのではないか。
国見町の北西部参加の意図はよくわからない。

大事なことは、
合併で孤立したり、遺恨を残してはいけない
多少のギクシャクがあるとすれば、大きくまとまることで薄められるのではないか。



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